大学での専門が詩(英詩)だったせいで、ある高校の合唱部で「さびしいかしの木」(やなせたかし作詞・木下牧子作曲)の歌詞の解釈をする機会がありました。また使えるかもしれないので、備忘録代わりに書き付けておきます。
「さびしいかしの木」 やなせたかし
山の上のいっぽんの
さびしいさびしい
カシの木が
とおくの国へいきたいと
空ゆく雲にたのんだが
雲は流れて
きえてしまった
山の上のいっぽんの
さびしいさびしいカシの木が
私といっしょにくらしてと
やさしい風にたのんだが
風はどこかへ
きえてしまった
山の上のいっぽんの
さびしいさびしい
カシの木は
今ではとても年をとり
ほほえみながら立っている
さびしいことに
なれてしまった
高校生にこの詩を読んだ感想を聞いたところ「ひとりぼっちのかしの木が、友達を得ようと何度も挫折をして、最後にはあきらめる悲しい歌」という感想が多く出ました。
「じゃあ、そんな悲しい詩なら、何で最後にかしの木はほほえんでいるのかな?」
と聞くと、みんな考え込んで、
「あきらめの苦笑?」
とか
「さびしすぎて頭がおかしくなった」
などと、訳が分からない様子でした。
こういうときはこの詩の収録されている詩集の原典に当たって前後の詩との関係などを調べるといいのですが、この詩が収録されている『愛する歌』は絶版で、それでも第1集と第2集、第4集をネットの古本屋で手に入れたのですが、残念ながらこの詩は収録されていませんでした。
そこで、やなせたかしが「さびしい(さみしい)」という語をどのような意味で用いているのかを調べてみることにしました。
すると、「第2集」の冒頭に、イラスト入りでこんな詩が掲げられていました。
巻頭詩には、この詩集の大きな方向性を示す詩や、この詩集の中で詩人が最も気に入った詩を掲げるものですが、いずれにしてもこの詩がこの詩集で最も重要なものであることに間違いありません。
これは「人間なんてさみしいね」という詩の一節で、この詩は全部で四連からなる詩です。下にそのうちの第四連を引用します。(現在では不適当な表現も含まれますが、作者の意図を尊重し、そのまま掲載します)
どうせこの世はまともじゃない
オレもオマエもみなさんも
ほんとはキチガイかもしれない
信ずるものはあるもんか
大群衆のまっただなか
石やきいもをかじりつつ
孤独のおもい胸せまる
たったひとりで生まれてきて
たったひとりで死んでゆく
人間なんてさみしいね
人間なんておかしいね
キチガイだったらよかったね
「キチガイだったらよかったね」とはショッキングな結びです。
人間はその存在自体が孤独でさみしいもので、そんな人間のあり方に滑稽ささえ感じられる、と詩人は歌っています。もしも「キチガイ」だったなら、この底なしの孤独にさいなまれなくて済んだのに、という思いをこめた結びなのでしょう。なお、この前の連では「心と心がふれあって/何にもいわずにわかること/ただそれだけのよろこびが/人生至上の幸福さ」と歌っており、何の救いもない詩ではないことが分かります。
もう一つ、「さびしい」について言及している文章を掲載します。
「誰でもふっと『さびしい』と感じることがある。みんなで盛り上がっている最中とか、楽しさのあとに、さびしさは不意に襲いかかってくる。『さびしい』という感情は、私たちの生命の本質に根ざしているのではないだろうか。」(『やなせたかし 明日をひらく言葉』PHP研究所 編)
これらのことから、やなせたかしは「人間の存在は本来『さびしい』ものなのである」という人生観をもっているということが分かります。
やなせたかしは幼い頃に父親を亡くし、第二次世界大戦に従軍し、戦後も漫画家としては長く不遇をかこちました。そんなつらい体験がこのような人生観を生んだのでしょうが、一方、「さみしさに負けそうなとき、にぎりこぶしをつくりなさい。げんこつで涙ふきなさい」と、人間存在の「さびしさ」を克服してゆこうという思いも強く持っていました。
さて、このように「さびしい」に込められた意味を見てきましたが、「さびしいかしの木」に立ち戻ってその解釈を考えていきましょう。
まず注意したいのがタイトルです。あくまでも「さびしいかしの木」なのであって、「ひとりぼっちのかしの木」ではないということに注意したいと思います。
これを考えるのにドイツ語の「孤独」という語がわかりやすいかと思います。ドイツ語の「孤独」には二つの語があり、ひとつは "Verlassenheit" もう一つは"Einsamkeit"です。
"Verlassenheit"はverlassen という動詞の名詞形で「見捨てる」とか「立ち去る」という意味があります。ですから"Verlassenheit"は、「見捨てられた孤独」「忘れ去られて陥った孤独」といったような意味です。いわゆる「ぼっち」はこちらです。
一方"Einsamkeit"はeinsamという副詞からできた名詞で「ひとりでいること」という意味から、「自らひとりでいる孤独」という意味になります。
これをあてはめると、「ひとりぼっち」はVerlassenheit、「さびしい」はEinsamkeitが当たるでしょう。ですから、「さびしいかしの木」は、「誰かに見捨てられた」のではなく、「元々そこに存在している」かしの木、ということなのです。やなせたかしにとっては「存在すること=さびしい」ことなのですから。
さて、この詩において時間という観点から見てみると、第一、第二連がかしの木の若い頃、第三連が「とっても年を」とった現在の様子であることが分かります。
かしの木は若い頃はしっかりと根を張っている自分の足下を見ることなく、遠くの国に憧れたり、友達がほしいと思ったりします。そして、「雲」や「風」といった、気まぐれで儚いものにばかり望みを託します。若いかしの木にとっては、存在の「さびしさ」は耐え難いものだったか、あるいはそんなことには気づかなかったのでしょう。
そのようなことを繰り返すうちにしかし、かしの木は次第に自分が「さびしい」存在であることに気づいていきます。そしてその「さびしさ」にすっかり慣れたとき、若い頃には耐え難かった「さびしさ」を受け入れることができ、はじめて心穏やかに「ほほえみながら」立つことができるようになったのです。つまりこの詩は、かしの木が自分の存在の孤独を受け入れて、心の平穏を得ることができるまでの道程を歌った詩だと考えられます。この「ほほえみ」は、あきらめたり気が狂ったりした笑いではなく、存在の孤独を克服し、今ここにいる自分に満足している「ほほえみ」と言えるでしょう。だから木下牧子はこのように、安らかで、どこか諦念の漂うような曲に仕立てたのだと思います。
「人間なんてさみしいね」では「キチガイだったらよかったね」と、さみしさからの逃避を願った詩人でしたが、「さびしいかしの木」では、人間存在が根源的に抱えている「さびしさ」は、様々な経験や時間の推移とともに乗り越えることができる、という力強いメッセージを発しているのです。
……というのがお話しした概要ですが、高校生から質問が出ました。
「風とか雲は、生きているものだと思いますか?」
つまり、この詩に出てくる風とか雲は、人格化されているものなのか、という質問です。
わたしは
「生きていないと思いますよ。かしの木が勝手にそう思い込んでいるのだと思います。誰しも若い頃は、あまり当てにならないものや、後から見てみればどうしてあんなものに、と思うものを信じ込んで、自分の存在の孤独というものには目を向けなかったり、目を背けたりするものですからね。」
と答えました。生徒さんは
「私もそう思っていました」
と言って、にっこり笑いました。
最後にご注意願いたいのは、ここに書いたことはあくまでも私の解釈だということです。優れた詩は、多くの解釈を可能にします。詩は何かの情報を正確に伝えるものではなく、言葉の高度な機能を用いて読み手に或るイメージをわき上がらせるものです。相対性理論のように、同じ詩を読んでも観測者によって受け取る内容は異なるのです。「正しい」「間違っている」という次元の話ではないということです。
皆さんも皆さん自身の「さびしいかしの木」のイメージを作っていただければと思います。
2017年7月31日月曜日
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