2017年8月3日木曜日

歌詞と歌

以前、機会に恵まれて、某音楽大学の合唱に関する公開講座に参加したことがありました。

講師は、最近あるコンクールで優勝したという若いソプラノの講師の方と、その大学の教授のバリトンの先生。とても含蓄のあるすばらしいお話でした。

最後に質疑応答の時間が設けられたので、質問してみました。
「先生方は歌われるときに、歌詞とどのように向き合っておられますか。」

すると、ソプラノの講師の方が少し考えて、
「歌詞の意味とかは、特に考えていません。」

教授の先生は、
「まず私は、歌詞の素読みをします。イタリア語ならイタリア語で、ドイツ語ならドイツ語で何度も朗読します。そうすると、その詩が内包しているリズムや抑揚が分かってきます。その後、その詩の意味を考えます。もちろん、参考文献も読みますが、自分なりの解釈を用意します。そうして歌います。作曲家はその歌詞と正面から向き合って作曲しているはずですから、歌い手もやはりそうしなければ、その歌の本質には迫れないと思うのです。」という趣旨のご回答でした。

私は大学からの帰り、いろいろ考えました。
「うた」ってなんだろうな、と。

歌を歌っていても、そこに「うた」のない場合もあるし、器楽の演奏のようにことばのない音楽にも「うた」がある場合もある。

そう考えると、歌詞の意味なんか分からなくても、そこに美しい声と歌心があれば「うた」があると言っていいのかもしれませんね。そうでなければ、私たちは外国の歌を聴いて感動するはずがないのですから。そういう意味ではソプラノの先生の言葉には納得できます。

しかし、歌い手としてはそうではないでしょう。

表現者として自分が「歌う」という行為が、少しでも意味のある行為でありたいと願うのならば、やはり自分が歌っている詩の意味が分かっていた方がいい。作曲者がその詩に触発されたみずみずしい瞬間を再現したいと思うならば、歌詞の「意味」は重要でしょう。

私はどちらかというとバリトンの先生のご意見に賛同するのですが、この問題はおそらく声楽や合唱をしている人にとっては必ずぶつかる壁なのではないかと思います。

声楽はその声質によってコロラトゥーラとか、リリコとかドラマティコ、ヘルデン・テノールなど、さまざまな名称があります。高度な技巧を駆使する声質はどちらかというと器楽的・技術的な要素が大きく、逆にリリコとかドラマティコなど、叙情性や劇的な表現を必要とする声質は、表現内容が重視される傾向があると思います。

ソプラノの先生とバリトンの先生のご意見が正反対のようになったのは、お二人の音域や、その音域に与えられた役割に基づくものだったのではないでしょうか。

ところが市井の人々の場合は、ソプラノの先生のように「技巧的」な歌を歌う人は少なく、多くの人々は、「この歌詞の意味は何だろう」と思いながら歌っていることが多いと思います。

そのときに「まあ、いいや」と思う人と「詩の意味を知りたい」と思う人に分かれると思いますが、カラオケならともかく、お客さんに何かを伝えたいと思うなら、詩の意味が分かっていた方がいいに決まってます。

ネットで「合唱部 歌詞 解釈」と調べてみると、いろいろな学校で苦労しながら歌詞の解釈をしていることが分かります。多くは部員同士で発表し合いながら理解を深めていっているようです。しかしながら中には難しい現代詩に曲をつけたものも多く、できれば国語の先生がサポートしてほしいな、と思います。

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